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私心記-心識ノ言

藤木寛充

描くということ

外に見えるものを描くとき、認識の質によって描き方は違ってくる。
同じく、内に見えるものを描くときも、認識の質よって描き方は違ってくるだろう。
自分が外に見えるものばかりを対象としているのは、この認識の質を自覚し意識出来、コントロールできるはずだという思いも理由の一つにある。
なので、流れる雲のように蠢く自身の内を描くことは、効率が悪く、明らかに終わりのない作業になる。
もちろん外を描くにしても、終わりはなさそうだが、ある程度固定された現実によって、モチベーションは保たれるし、比較もしやすい。
さて、絵を見て何が描かれているのかを示すとき、当然描き手は何を描いているのかを自覚出来ていなければ話にならない。
コップを見て描くなら、コップを描くのか、コップがあるのを描くのか、コップを見ていることを描くのか、だけでも全く違った絵になる。
そもそもコップと認識してしまう脳の横着さがとても気に食わないが、そのスイッチを外すためにも、集中し長い時間夢中で描き続けることが必要となっている。
一度外れればコントロール出来るものであるが、精神によってぐらついたりもするから、統一は肝心で、何を見ているかによって絵は決まり、無心によって進んでくれる。

エネルギー

絵を描く抜け殻の僕を背に、広がる風景を望むものが絵に宿る。


画材

鉛筆をSTAEDTLER/Fに変えてから、紙も、より良い物へと思い、手漉二双紙から楮紙に変えたことで、この楮紙とSTAEDTLER/Fの相性が悪かった。そこで鉛筆を、STAEDTLER Mars Lumograph black / 4Bに切り替えた。
カーボン鉛筆ということで、成分は墨汁に近く、光沢がないので、これまでよりも見やすい画面となるだろう。また紙への定着性が高いとの説明があった。耐久性に関しては、フィキサチフでは少々疑っているので、和紙なので色々と試行錯誤をしていた。
墨で筆で描けば早いのだが、繰り返し濃淡をコントロールさせていくには鉛筆が良いので、いわゆる鉛筆画の耐久性を高めることを目的として、主に掛け軸の構造をここ数日勉強している。

サイン

サインを「Hiromitsu」から「寛充」へ変更。
以前からサインのローマ字表記に違和感を感じながらも、そのまま惰性で続けていました。
しかし、絵自体も違和感を感じていそうな印象を受けたため、変更へと至りました。

●サインの流れ

作品ナンバー / Hiromitsufujiki

Hiromitsufujiki

作品ナンバー / Hiromitsu

Hiromitsu

寛充

認識の細分化

認識の細分化の進みが同時に技術を向上させていきます。
細分化された色彩の面と隣り合う色彩の面との細かい点に見るコントラストは唯一無二のものです。それを知性や品、性分、姿勢でもって単純化、また組み立てなおしていく過程は決して軽視できません。
が、そもそも認識の細分化の度合いによってキャンバスに表出されるものは限られてくると言ってもいいでしょう。
描くことで認識は深まりますが、描かなくても深まります。
要は何をしているときでも作業に繋がっているということは、心持さえ保てていれば無駄なことは一切ないということです。

落ち葉の上で

彼方にイチョウを望む目も
ここに足を見ること離れずに
彼方に立つこと望むとき
ここと言う惰性に目を付ける

迷いながらも

油彩具を初めて匂い、混ぜ、乗せたときの大きな衝撃。お金の心配を余所にバイトもせずただ絵を描き続けることで行き着く先が、いつもどうしたらいいのか?という場所。
描き始め、素人の絵が上達してく過程を見て欲しいという形で4回程個展を開催しましたが、絵を買ってもらうってどうなのだろうという疑念から積極的に展示販売等をする意欲などなく、ただ意欲の向く方へ進み続け、これまで何万人もいたであろう画家を志した人達をなぞるであろう見える景色、財布の中に1000円札があれば1年は過ごしていけそうな気がするほどの日々で、時に描いているときにお布施のような形でお金を頂いたり、年に数回は通りがかりの方に買っていただけたり、浮浪者に缶コーヒーをご馳走していただいたり、というような約8年を過ごしてきた中で、これまで通りこれから描く絵と向き合えるのかと訊けば戸惑う、気合で進めてもどうしたらいいのかと自問自答は付きまとう。
これからの作業には気合だけで済ませられるようなものではないと気付いている状況です。

そっと肩に触れた感触は 糞ではなさそうで
このへんで筆を置き 一服しようと振り返る
空を見上げて寝そべっている蝉
二人目が合うと 木漏れ日が大きく微笑みかけた
遥か彼方から 愛おしさを照らす大地で
互いは手を差し出し やさしい風に包まれる

人に対する寂しさ

雨で進めていないが、昨日から描き出した場所。
ただ、小降りになったので来てみると、汚らしいという理由で潰されていた。とても色々な面で残念なこと。自分と近い世代の人から以下は違うと信じていたい。
へし折られた花の中から少し持って帰って描くしかないが、現在は空間も考慮した描写なので壁とテーブルの間をあけた。
しかし、満開の花らを次々とへし折っていく神経は理解出来ない。
その心が汚らしいと想うことはお互い様なのか。
じいさんらの本当の動機による。

覚悟の箇所

覆い被された自己という意識は、それより遥かに大きい歪みによって確認出来る。
自己という意識を確認している、遥かに大きい意識。
人々がつい安定、安心を求めてしまう性は、歪みのない場所への帰還願望による派生と読んで、いつまでも帰還出来ない(しない)我々によって自動的に進められる、地球、政治、経済、自然など、全ての分野の歪みをなくしていく運動と、それを阻む衝動。
何も起こらなければ退屈してしまう人達にとって、とても住みにくい世界へと進んでいる。
ただ我々はいずれ歪みのない場所へ帰還すると思う。 おそらく場所でも何でもなく、2年ほど前の個展で「源」と言っていた広大な意識のようなものに溶け込む。
溶け込めない者の再来。
そして溶け込まない者の再来。
両者が揃う限り、衝突は避けられないが、高い位置での衝突を目指す。
その頃大切になる高品質な衝突。それを可能にするために目の向け所、想像力、しいては意識の改革が必ず必要となる。すでに昔からなっている。
老人になり、横たわる中で気付くこと。それは言い換えれば気付けていたこと。目を向けなかっただけのこと、覚悟を後回しにしてきたこと。

8年目

丁度8年目に入った。初めは渋々ながらも、現在では当然のように振舞っていただき、(当然のように描き)周囲の方々に支えられ、絵に関わるまでの自分より強く、今日まで生きています。
本当に感謝でしかありません。
そして制作では色、線。より丁寧に慎重に、率直に。新たな発見が多いこの頃。
この年に試作品が出来るだろう、という願いへは順調に進んでいて、それが出来れば、積極的に作品を知らせることも具体的に動き出す。
それまでは、(それからも)自分の活動は描くこと。 少しでも心が精神がブレてしまっては、応援くださっている方々に失礼であり、未来の自分に示しが付かない。

色彩と線

色を使うとき、どうしても塗りたくってしまう癖があった。描き跡をそのままにすることで線にもなることを今知った。
色=塗るは自分ではなかった。

束縛

縛り付けて捕らえるとある。制限を加えて自由を奪うとある。
しかし、自由が自由を奪う。
制限が自由を創造させる。
厳しい制限の中に、創造性は根を張る。

無題

違和感がいつまで経っても払拭出来ず,,, こんなときには決まって、自分は救いようのない馬鹿な人間だと自身を底へと沈めていく(実際に馬鹿だとは重々承知している)。
そして深い空虚に浸ってしまうのだが、これも言い換えれば、根拠のない自信のみで続けてきている者が持っている置いていけない荷物なのだ。
自信が過ぎれば病む。しかしそれを恐れては続けられないし、進まない。

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